動物の権利について
ブログを新しく作りなおしました。
作りなおした記念に、動物倫理について考えたことを稚拙ながら、書いてみる事にした。
動物倫理について関心を持ったのは、2015年の秋頃(大学2年生の演習時にピーター・シンガーの動物解放論について発表してから)である。しかし、関心を持ったというものの、卒業論文では、ブラジルの思想家について執筆したし、現在興味があるのは現象学や政治哲学(特にクロード・ルフォール)であるため、動物倫理についてアウトプットするのはこのブログのみになると思う。
目次
1.権利について
最近、デヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』、キャス・R・サンスティン他『動物の権利』、ゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』といった動物の権利について議論をしている本が沢山出版されている。
ここ数年で動物の権利に関する著作が翻訳され、出版される事が多くなってきていると個人的には感じている。
上述した通り、私が動物倫理に興味を持つようになったのは、大学二年時の演習発表時であるが、その時、私以外の同級生からは、「動物に権利なんかあるわけない」「ペットには権利があると思うが、家畜や野良には権利なんかあるわけがない」「家畜動物達は、食べられるために生まれてきたので、権利を考える必要はない」「動物たちは、動物園にいた方が幸せだから、動物園は正当な施設である」「我々人間が生きていくためには動物の死が必要である。しょうがない。」といった意見が多く出てきた。当時は、私自身の勉強不足もあり、彼らの意見に対して応答はしたものの、完全に納得させる事が出来た自信はない。次、動物倫理について書く時は、その時のレジュメをもとに(発表後の先生からのコメントをふまえ)、書きたいと思う。
今回は、少し人間の権利について話を進め、動物の権利について考えていきたい。
2.人間の権利
一般的に、人間には、言葉を操る事が出来ない幼児、植物状態の人間にも生きる権利が認められている。その権利が認められているのは、社会全体に対しての義務を果たしている限りである。
日本では、他人を二人以上*1、自分自身の欲望(遺産目当て、保険金目当て、なんとなく人を殺したかった、ムカつくから、報復のために等)を実現するために殺せば、その権利は死刑*2という形で否定される事がある。人間に認められている生きる権利というものは、他の人全体との関係で機能しているのである*3。
しかし、人間の生存というものは、人類だけが責任を持ち、保障する事が出来なくなっているのではないか。地球環境問題を考慮に入れて考えてみると、人類全体が数百年後の子孫たちの生存を許すと宣言し、文書をのこしたとしても、その保障の危うさはどうにもならない事が、我々には簡単に分かるだろう。人間に対する生きる権利は我々人類の手を離れつつある。
地震や津波といった自然災害は、人間の命を奪い、危機に陥れてきた。元々、自然は人間に対して、生きる権利を認めてきたわけではないと言えるかもしれない。権利とは、狭い意味で人類の中でのみ有効な概念であるという事ができるかもしれない。だが、食品や生活必需品の化学物質の生命に対する有害性の問題に見られるように、人間の生存がその活動を介し、自然に介入してきているとすれば、自然と共存せざるを得ない人間の生きる権利が、我々人類のみに完結して良いはずはないのではないか。
3.人間だけではなく多種多様な種を考慮に入れて
人間が自然に接する限りにおいて、人間だけを守るのではなく、全てをバランスよく守っていくことが必要となってくる。特定の種が排他的に生きる権利が認められるという事を意味しない。そもそも、生きる権利とは、多種多様な生物が共存する権利であるはずだ。そのためには、ある場合において、生きる権利が奪われることも考え得る。しかし、ここで注意すべきは、それを最終的に判断するのは、我々人類ではない。多様な種との関係の中で、相互的に悟るべき問題である。
例えば、2011年3月11日におきた東日本大震災の原子力発電所の事故によって、人間の避難すらままならない状況もあり、多くの家畜動物が放置され、見殺しにされていった。さらには、人工的に殺処分された家畜動物も多かったそうだ*4。これは、全体の福祉のために部分を犠牲にするという方法である。こういった緊急避難では、人間を見殺しにする事も許されうる。その意味では、家畜動物達は、見殺しにされてしまったのだ。ここで問題となるのが、この様な措置が家畜動物達全体にとって福祉になるかどうかである。現在、麻疹が流行しているようだが、こういった重大な感染病が蔓延した場合*5、我々人間がこのような措置を受ける可能性があることを考えていかなければならない。人間と動物達の生きる権利というのは、自然との関係において同等なものであり、人間だけが優遇される理由を述べるのは難しくなってきているのではないのだろうか。